山手111番館は、船舶関連の事業と両替商を営むアメリカ人、J.E.ラフィン(ジョン・エドワード・ラフィン John Edward Laffin)の旧宅で、建物正面に、当時アメリカで人気のあったスパニッシュスタイルを取り入れている。スパニッシュスタイルの特徴は、明るい色のS字瓦、白またはクリーム色の外壁、アーチ型の開口部の三つに集約される。内装は対照的に落ち着いたイメージで、アメリカ人建築家、J.H.モーガンはA案からD案までの4種類の計画図面を用意した。現在の111番館は、モーガンのA案を踏襲したデザインだが、2階のスリーピングポーチは、施主の希望で後から追加されたものであるという。
横浜山手に残るモーガンの作品
1923(大正12)年に東京・横浜を襲った関東大震災は、都市機能のすべてを奪った。ことに外国商社の多い横浜では、病院、学校、教会、競馬場など公共施設の再建を急ぎ、モーガンの元に多様な依頼が寄せられた。関東大震災の後、東京から横浜に事務所を移したモーガンは、横浜復興のために、様々な建築物を精力的に設計した。
同時期に活躍したジョサイア・コンドルやアントニン・レーモンドに比べ、モーガンの設計が多岐に渡る理由は、すでにアメリカで30年のキャリアを持つ経験豊富な建築家であったことに加えて、保守的だが機能的な建築を旨とし、依頼主のリクエストに細かく対応する柔軟性があったからだと言われる。
横浜のモーガン作品の大半は、第二次世界大戦による空襲などで失われてしまったが、旧横浜競馬場一等馬見所、山手ベーリックホール、111番館、山手聖公会(横浜クライスト・チャーチ)、山手外国人墓地の正門などが現存する。
山手111番館
J.E. ラフィンの父、T.M. ラフィン(トーマス・メルヴィン・ラフィン Thomas Melvin Laffin)は、アメリカの海軍士官として航行中、艦船修理のために横浜に寄港した。その間、休暇を利用して行った箱根湯本で石井みよに出会い、日本に残ることを決意した。8人の子供たちは、いずれも横浜で生まれ育った。トーマスは1886(明治19)年に日本郵船に入社し、その後独立して、ラフィン商会を設立した。山手111番館は、結婚する長男ジョンのために、1926(大正15)年に建てられたものである。
山手聖公会
山手聖公会は初め、山下居留地105番地にあったが、1901(明治34)年に現在の山手235番地に移転した。移転に当たって新しい教会を設計したのはジョサイア・コンドルであった。コンドルの設計した建物は煉瓦造りのヴィクトリアン・ゴシック洋式(19世紀のロンドンで流行した)で、窓のアーチ部分に石と煉瓦を交互にあしらった洗練された外観を示していた。しかし、この建物は関東大震災で跡形もなく倒壊してしまう。そこで、地震にも火災にも強い新教会を依頼されたのがモーガンだった。モーガンは、基礎をしっかりと張った鉄筋コンクリート造りを採用し、外壁は火に強い大谷石を用いた。正面にはどっしりとした角柱の塔を建て、開口部にアーチを多用した。1931(昭和6)年、モーガン設計のノルマン様式の教会が竣工した。その後、第二次世界大戦の横浜空襲や、2005(平成17)年の放火で損傷を受けたものの、信者たちの努力によってモーガンのデザインが復原され、その都度、教会は復興した。
アメリカ時代のモーガン
モーガンは、1868(明治元)年12月10日に、ニューヨーク州バッファローに生まれた。祖父の時代にイギリスのウェールズからアメリカに渡ってきたモーガン一家は、バッファローに居を定め、モーガンの父は家具職人となった。モーガンの建築関係の履歴は、1889(明治22)年に始まる。モーガンは、D.W.ダネルの事務所に製図係として勤務した。すぐに姉夫婦の新居を設計する機会に恵まれ、しかもそのデザインが雑誌に掲載される幸運に恵まれた。その後、いくつかの設計事務所で研鑽を積み、モーガンは現場叩き上げの建築家となっていく。アメリカ最大の建築施工会社、フラー社に就職してからのモーガンは、ワシントンD.C.やニューヨークで、ホテルや集合住宅、劇場など多彩な建築を手がけた。残念ながら現存する建物は少なく、ブロードウェイの大劇場、ヒッポドロームもすでに取り壊されてしまったものの、その姿をYouTubeで見ることができる。
モーガンは、1892(明治25)年にインテリアの仕事をしていたオーガスタ・ジュヌビエーブ・ショッソーと結婚し、二女一男に恵まれた。しかし、家庭生活は順調とは言い難かったようで、二人は結局、生涯別居することを選択したのだった。モーガンは、日本に拠点を移してからも、生涯、子供たちには手紙やプレゼントなどを送ることを忘れなかった。
モーガンの自宅
1931(昭和6)年頃には、モーガンは神奈川県藤沢市の高台に2,200坪の敷地を得て、念願の自宅を構えた。石井たまのの公私にわたる献身に支えられて、モーガンは心身ともに充実した時を過ごしたようだ。近所の人たちと獅子舞の行事に参加して、着物でくつろぐモーガンの姿には、日本への想いが溢れているように見える。しかし残念なことに、旧モーガン邸は2007(平成19)年5月12日、不審火によって焼失してしまった。藤沢市と日本ナショナルトラストが、保存に向けて活動を開始した矢先の出来事だったという。