長崎 グラバー園

異人たちの足跡 23 グラバーと幕末志士

長崎の港を一望する高台、南山手のグラバー園は、スコットランド人トーマス・ブレーク・グラバー(Thomas Blake Glover)の邸宅を中心に、明治初期の木造建築物を移築保存した公園である。グラバーは、長崎大浦居留地で茶や生糸の貿易商として成功した後、西洋式のドック建設や炭坑開発など、日本の近代化に貢献した。また、内外の有力者と幅広いつながりを構築して、明治維新の日本に、少なからぬ影響を与えた。

旧グラバー邸

クローバー型に屋根が広がるグラバー邸は、1863(文久3)年に建てられた日本最古の木造洋風建築である。正面玄関を設けず、庇の深いデッキからホールにつながる開放的なデザインは、施主グラバーによるものである。しかし知恵を絞って図面を引き、経験のない西洋建築の施工をしたのは、日本人棟梁の小山秀だ。グラバー邸は、19世紀末頃にアメリカ、カリフォルニアで大流行したバンガロー様式の先駆けとも言える斬新な邸であった。

石のアーチをくぐって正面アプローチの緩やかな傾斜を上ると、円形の花壇と樹齢300年の棕櫚の木が、ゲストを温かく迎えてくれる。石畳のベランダから室内に入れば、窓の多い類円形の客室にグラバーの旅行鞄が展示されていたり、贅沢な料理が並ぶダイニングテーブルがセッティングされていたりと、往時のグラバー邸の様子が再現されている。グラバーの妻、ツルの部屋は、広い温室の奥にあって、明るい陽射しがふんだんに入る。そのツルの部屋の前の廊下の天井を見上げると、隠し部屋がある。ここで、グラバーが援助していた幕末志士たちが、密航前に身を隠したり、討幕の密談をしたりしたのかもしれない。

T. B. グラバー

スコットランドのフレイザーバラで生まれたグラバーは、1859(安政6)年に、21才で来日した。ジャーディン・マセソン商会(イギリス極東貿易の中心企業)の長崎代理店を引き継ぐと、グラバーは成功者の階段を瞬く間に駆け上がった。1862(文久2)年には独立して、グラバー商会を設立し、その翌年に、瓦葺きクローバー型屋根が特徴の、グラバー邸を新築した。グラバー邸には、各国の有力者や、倒幕と新政府樹立に関わった薩長の志士たちが忙しく出入りした。

グラバーと幕末志士

1863(文久3)年、長州の五傑(井上馨、伊藤博文、遠藤謹助、野村弥吉、山尾庸三)は、海外渡航の禁を犯して英国に留学した。グラバーはジャーディン・マセソン商会横浜支店(英一番館)のウィリアム・ケズウィックに協力を求め、渡英中はマセソン家の関係者が彼らの世話役となるよう斡旋した。5人は帰国後、各分野で日本の近代化に奮闘することになるが、グラバーへの感謝は晩年まで続いたという。1865(元治元)年には五代友厚率いる19名の薩摩藩士も、同様にグラバーの斡旋でヨーロッパに向けて出航した。さらにグラバーは、駐日英国公使ハリー・パークスと薩長同盟を引き合わせ、倒幕への動きを加速させたと言われる。

グラバーの成功と没落

1866(慶応2)年から1868(慶応4)年頃までのグラバー商会は、貿易業の枠を超えて、企業規模を拡大していった。同時に、高島炭坑の開発や小菅のスリップドッグ建設など、投機的な事業に進出していった。この頃のグラバー商会は、上海、横浜、ついで大阪や神戸にも支店を出している。しかし、グラバーは機略に富んだ貿易商ではあったが、起業家としては何かが欠けていた。これらの事業はグラバー商会の資産を固定化してしまい、後の資金繰りを困難にしていく。さらに、ずさんな経理とグラバーの楽観主義などが相まって、1871(明治4)年には、グラバー商会は解散、破産整理に追い込まれた。

東京でのグラバー

複雑多岐に渡っていたグラバー商会の負債整理は、1877(明治10)年まで続いた。その間、グラバーは高島炭坑の経営に残留して黙々と働き、1874(明治7)年頃には、個人的な債務返済は完了していたようだ。また、1867(慶応3)年頃に結婚していた淡路屋ツルとの間に、長女ハナ、加賀マキとの間には新三郎(後の富三郎)が生まれている。ジョン・ルーサー・ロングの小説『蝶々夫人』と、その小説を元にしたプッチーニのオペラ『蝶々夫人』は、グラバー夫人、ツルとの共通点が多いが、完全なモデルではない。その後グラバーは、ツル、ハナ、富三郎を連れて東京に居を移し、三菱の顧問となった。

1883(明治16)年に外務大臣、井上馨の発案で建設された鹿鳴館(設計はジョサイア・コンドル)は、日本の対外アピールを目的とした社交場であった。在日外国人社会から絶大な信頼を得ていたグラバーは、鹿鳴館のセクレタリーとしても活躍した。東京芝公園の自宅には、グラバーの意見を求めて、政財界の来客が途切れることなく続いたという。

晩年は日光中禅寺湖畔での釣りを楽しみ、穏やかな生活を送った。1908(明治41)年、日本政府より異例の勲二等旭日章を受けた3年後、グラバーは1911(明治44)年12月16日、慢性腎炎のため亡くなった。73年の波乱の人生は、明治という時代とともに幕を降ろした。

グラバー園の最も高台にある旧三菱第二ドックハウスからは、長崎の港が一望できる。グラバーはここで壮大な夢を抱いたものの、ビジネスでは挫折を味わった。しかし、若き幕末志士たちと日本の将来を熱く論じ、その方向を決める一助となったことを、終生誇りに思っていたに違いない。

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