京都嵯峨野「祇王寺」~第四部

祇王と平清盛の悲恋物語

母とじは二人の娘を両腕に抱きかかえて、

「祇王、ごめんね。お前の気持ちも深く汲まずにつらい思いをさせてしまった。許しておくれ。娘二人が身を投げるとあっては、老いさらばえた母とて身を投げなければ仕方がない。だが、死期が来てもいない親に身投げさせるのは五逆罪ではなかろうか。私はこの世に未練などないよ。この世は仮の宿だからね。それにしても、あの世でさえ、祇王、お前が悪道へ行くとは、何という悲しいことよ。」

と母とじはさめざめと泣いた。

「お母様。そうですわね。仰るとおりです。ただ、このまま都におればまたひどい仕打ちに合うでしょうから、いっそのこと都の外にでましょう。」

と二十一歳の祇王は髪を落とし尼僧となって嵯峨の小倉山に小さい粗末な庵を編んだ。共に自害を誓った十九の祇女、そして四十五歳の母も髪を剃り庵にこもって念仏を唱え往生を願う静かな生活に我が心の安らぎを求めたのであった。

季節はめぐり夏が来た。七夕の夕間暮れ時、庵の竹の編み戸をとつとつと叩く音がする。開けてみると薄暮の闇の中に立っているのははたして仏御前であった。

「どうしたのです、こんなところまで。」

と驚く祇王に仏御前は、

「やさしい祇王御前のお心で受け入れていただきましたのに、私のしたことは仇となってしまいました。女の悲しさで我が身をどうすることもできませんでした。皆様のご住所を知ってからは親方様にお暇をいただきたくお願いをしましたが聞き入れてはもらえませんでした。この世は儚いものです。現世の華やかさは夢のまた夢。一時の栄華を誇るあまり来世を知らないことが悲しくて、今朝、忍び出てこのように参りました。」

そう言うと被っていた衣を仏御前はぱらりと落とした。頭はきれいに丸められ尼になっていた。祇王は仏御前の手を取り中に招き入れた。

「お気持ちはよくわかりました。あなたのことは少しも恨みには思っていませんよ。あなたもさぞつらかったことでしょう。わずか十七歳であるあなたが浄土を願う仏の道を思っていらっしゃるのです。一緒に暮らしましょう。」

こうして祇王、祇女、とじ、そして仏御前の女四人は一つの草庵にこもり、春には野山の花を摘み、秋には木の実やきのこを取りながら嵯峨野の平安な暮らしを楽しみ、それぞれ天寿の長さは違ったがみな往生の本懐を遂げたのであった。

祇王は承安2(1172)年没。仏御前はその後しばらく往生院に逗まったが治承2(1178)年京都を離れ出身地の加賀に戻り、わずか2年後の治承4(1180)年、二十歳の若さで死去した。平清盛はといえば祇王との恋が燃え盛る頃が彼自身の絶頂期でもあった。祇王の死去から9年後、清盛は熱病に冒され源氏滅亡の夢の実現を見ること無く熱病に倒れて死去した。時は治承5(1181)年。清盛の死を境に平氏は力を失い始め、清盛の死からわずか4年後、平氏は屋島の戦い、壇ノ浦の戦いと立て続けに源氏に負け、一族は殲滅された。

 祇王寺の本堂の座敷には祇王の小さな木像がひっそりと安置されている。鎌倉時代の作とされるその墨色の像の目は静かに宙を見ながら私の視線に絡まってくる。飢饉や地震の天災と戦争の動乱に翻弄された平安末期の時代を生きた祇王らの生涯は、それでも、当時の社会の騒乱から隔絶された小倉山の木々に抱かれて安らぎに満ちていたのかもしれない。

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